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創立者 花井卓蔵
 

『…錆のある音声と、華やかな弁舌と、辛辣な立論と、計時弁論の社会的地位を定めた感あり。毎議会では政府の鬼門的存在を示して、波乱を巻き、然れども怒って敵を作らず、撃ってこれを愛撫する処世の妙は、範とするに足る。「何人も見る権利あり今日の月」の名吟を残す一方、「法に涙あり」の主張が、しばしば法廷に時ならぬ涙の雨を降らせた…』

花井卓蔵は、明治元年、広島県三原に生まれた。11才の時上京。明治21年英吉利法律学校(現中央大学)を第一回生として卒業するや、翌々年には代言人試験(当時の弁護士試験、現在の司法試験)に合格、法曹界の最年少者としてその一歩を印した。昭和4年、弁護士会を退会するまで40年、その間に担当した刑事事件は約1万件を数えた。そのいずれをとっても、「罰せんが為に罰するのに非ずして、救わんが為に罰するなり」との刑法仁愛論に基礎を置き、人の心の奥底から感銘させる情状から出発し、さらに熱心にして科学的で緻密な裏付けを伴っていた。

明治43年の星亨暗殺事件の弁護に関しては、当時の新聞をして「花井の弁論は奇警にして論理明快」と賞賛させた。足尾鉱毒事件では、弾圧された農民を保護し、ついには無罪とした。さらに明治34年、いわゆる大逆事件の被告・幸徳秋水の弁護にも加わり、その細やかな気配りに、幸徳は涙を流したといわれる。しかし、卓蔵はこうした大事件ばかりを選んで引き受けたわけではない。担当した1万件以上の事件のうち、名も無き庶民の窮状を救ったほうが、数として圧倒的に多かった。

卓蔵は、法の番人であると共に、偉大な立法者でもあった。明治31年の総選挙に当選。時に30才であった。離合集散を常とする政界にあって、終始一貫節を曲げず、一人一党主義に徹し、時には名副議長として政局の難関を突破し、刑法の集大成を成し遂げた。大正11年、貴族院議員に任ぜられた卓蔵は、開院以来最大の論議と言われる「陪審法案」の審議で、後の首相・若槻礼次郎と延々12時間にも及ぶ論戦の末、ついにこれを成立せしめたという。

こうして“法の代表者、花井卓蔵”の名は国家に重んじられ、民衆からは限りない声望を集めた。また、卓蔵は、明治42年、私学者として最初の法学博士の称号を得、本学学生の信望を一身に集め、後には「学長にも」と再三再四熱望されたが、その都度固辞。ただひたすらに本学発展に寄与した。

昭和6年12月3日、不慮の死を遂げ、ここに波乱に満ちた大法曹の一生は、万人の惜情を受けつつ閉じたのである。当時の新聞の何れもが、その偉業を讃えつつ哀悼の意を表した。冒頭に示した、朝日新聞「天声人語」の如くである。

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